吉田光一(よしだこういち)

■石陽社の幹部
石川地方を代表する民権家吉田光一は、1845年(弘化2)9月石都々古和気神社の社家に生まれました。明治維新後も神職をつとめていましたが、29歳のときの1874年(明治7)9月、24歳の河野広中が磐前県の区長として石川に赴任したことから、民権家としての光一の歩みが始まったようです。75年8月16日、国会開設を目指す有志会議が設立されると幹部として議長の河野を助け、そのかたわら磐前県の地方官もつとめました。78年(明治11)1月、有志会議は同志を募って組織を広げ、石陽社と名をかえました。しかし河野は同1月に福島県官吏として福島に赴任したため、光一は幹部の中心として石陽社の運営に当たりました。光一らは国政に自分たちの意見を反映させるために、より多くの同志との連携が必要と考えました。そのため、東北各地の政治結社(政社)と同盟を結び、石陽社は東日本を代表する政社に成長しました。

■東北・東京での活動
当時西日本の政社の連合体に愛国社があり、河野は79年10月の愛国社大会に参加しました。大会は国会開設の署名活動を決議しました。その結果、光一は同年12月奥羽誘説の旅に出発しました。会津地方の民権家山口千代作らを訪ね、喜多方から豪雪の大峠を越えて米沢に下り、酒田の森藤右衛門と会談し、秋田・弘前を経て青森に至りました。さらに仙台で東北連合会に出席し、角田を経て80年3月石川に帰りました。ソリの他は全行程のほとんどが徒歩による大旅行でした。翌4月、光一は席を温める暇もなく、費用の調達に苦労しながら愛国社東京支社詰として上京しました。同月、民権派は河野と立志社の片岡健吉が代表となって国会開設上願書を政府に提出しましたが却下されました。そればかりか、政府は集会条例を制定して民権運動を弾圧しました。そのため石陽社の活動は中断されました。

■福島・喜多方事件で逮捕
82年(明治15)2月、薩摩出身の三島通庸が福島県令に着任しました。このころの石川では、政談演説会が盛んに開かれました。光一は長老格であったため自身で演説することはありませんが、若手の民権家が活躍しました。自由党弾圧の密命を受けていたといわれる三島は、福島・喜多方事件を引き起こし河野以下の自由党員を逮捕しました。そのため、県下の自由党は大きな打撃を受けました。
このころの三島県令への警察報告書によると、県会議員であった光一は「石川郡自由党」の筆頭に名があります。河野は福島にあって自由党福島部を率いて活動していたので、光一が石川郡自由党の最高指導者をつとめていたのです。光一は同年12月10日に逮捕され、風雪の中を会津若松に送られて取り調べを受けました。石川からは鈴木重謙・笠原忠節・関根常吉らも逮捕されました。重要人物と目された光一は、河野らとともに政府転覆をはかる国事犯とされ、厳寒の2月に膝痛をこらえて豪雪の勢至堂峠を越え、東京の高等法院に送られました。しかし、無実の嫌疑だったため翌年4月に釈放されました。和歌に優れた光一は、
会津ねの深雪も今はうちとけて
道ある春に吾は逢いにき
とその喜びを詠んでいます。しかし、三島県令は釈放された民権家を官吏侮辱という理由で逮捕しようとしました。これを知った光一は逃亡生活を送りましたが、84年12月に逮捕されました。福島監獄を出獄したのは86年(明治19)3月でした。

吉田光一手記『会津峰吹雪』
(吉田英高氏蔵)

■地域の振興に活躍
 84年10月、光一は再度県会議員に当選しましたが、河野や吉田正雄のように国政には関与しないで、89年6月に初代の石川村長、ついで初代の町長に就任しました。さらに石川郡蚕糸組合長、石川郡産馬組合総代をつとめ、自ら養蚕を行うなど地域産業の振興に尽力しました。また教育の重要性知る光一は、92年(明治25)6月森嘉種を塾長に招いて石川義塾を設立し、自分は塾主として県下初の私立中学・石川中学校の基礎を築きました。義塾設立のとき光一は、草鞋履きで郡内を廻り資金集めに奔走したと伝えられています。光一は95年10月、現職町長のまま51歳で急死しました。石川町は町葬を以てその功績を称えました。