河野広中(こうのひろなか)

■誕生から田村郡常葉戸長時代まで
 1849年(嘉永7)〜1923年(大正12)。自由民権運動の指導者。福島県の生んだ明治・大正期の代表的な政治家です。別名河野磐州。本県で最初に衆議院議長・農商務大臣になった人物です。河野は田村郡三春町の呉服・魚問屋を営む商店の3男として生まれ、子供のころから読書好きでとくに『太閤記』などの軍本を愛読しました。青年になると三春の川前紫渓の塾で和漢を学び、若い時から政治に関心が強く、68年7月戊辰戦争のとき新政府軍土佐藩の参謀板垣退助に三春城を攻めないように会って頼みました。9月22日、会津城が落城、本県の戊辰戦争は終わりました。河野は73年2月、県から第4大区小14区(田村郡常葉)の副戸長に任命されました。河野はミルの『自由の理』などの翻訳本を読んで目ざめ、村会(民会)を開いたと『河野磐州伝』には書いてあります。74年9月、河野は日頃の実績を認められて石川会所の区長に任命されました。河野24歳のときでした。

■石川区長、有志会議開設から石陽社誕生まで
 75年(明治8)5月、河野は東京で第1回地方官(知事)会議が開かれ、民会が議題になることを聞いて、福島権令村上光雄の許可を得て傍聴に行きました(傍聴者は13県の各県2名づつ)。7月8日の会議で議長木戸孝允は「府県の民会7県、区会長会の民会1府22県(磐前県も含む)、民会がない2府17県」と報告しました。会議では各府県令が大激論の末、民会の参加者は多数決で「県が任命した区戸長がよい」と決定しました。選挙で議員を選ぶ支持者が少なかったため河野は不満でした。しかし、傍聴しての収穫は民権運動に熱心な酒田の森藤右衛門、三春の影山正博、土佐の西山志澄らと会い宿で自由民権を論じ、立志社の「民会議事章程」を読み、互いに交流のきっかけをつかんだことでした。刺激を受けた河野は石川に帰ると早速1ヶ月後の8月16日、同志を集め石川村に有志会議を開設しました。

 76年、県大書記官中条政恒が石川会所に視察に来たとき、河野は実施している代議政治の重要性を話すと中条はその熱意に打たれ、県庁に帰って権令山吉盛典に報告しました。これがきっかけで河野は県から「県民会規則案」の検討委員を命じられました。77年9月7日から18日まで河野は民権運動を勉強するため高知を訪問し、立志社を尋ね板垣退助らの民権家と会い、組織の運営等について実情を聞きました。河野は板垣に「1日も早く数社の結社をまとめるように」と言われ、再会を約束して石川に帰りました。河野は実績が認められ翌年1月4日付けで県庁六等属の職に任命されると、同月18日有志会議の書類を石陽社の幹部に引き継ぎ、翌日県庁に赴任しました。

■石川を離れた以後の活動
 河野は「県民会規則」に基づく初の県会を開く準備の世話をしました。選挙を行い、78年6月1日福島の西蓮寺で初の県会が開かれました。河野は県会が終わると8月に退職し、三春に帰りました。翌年2月から5月まで三春の戸長を務めすぐ辞めました。その後、河野は石陽社を中心に県内ばかりでなく東北の政社と連携をはかる運動を続けました。河野の指導によって、78年10月福島町に岩磐二州会、11月仙台に東北有志会、80年春東北七州会連合会が結成されました。80年に福島町にできた共愛同謀会は県内民権結社の実質的な連合組織でした。河野は名実ともに東日本の自由民権運動の指導者になりました。79年(明治12)以降、全国をまわり国会開設運動を行いました。河野は第3回愛国社大会が大阪で開かれると、おいの広躰を連れて出席しその足で再び高知を訪ね板垣退助と会い、石陽社の発足を報告しています。81年(明治14)2月、河野は第2回目の県会議員選挙で田村郡で最高点で当選し、3代目の県会議長になりました。三島通庸が82年1月に着任し、5月、河野の指導によって県会では議案を毎号否決しました。その後、県民を大弾圧した福島・喜多方事件が起きたのです。

■その後の河野の主な歩み
 河野はこの事件の最高首謀者として逮捕されました。獄中にあること6年余り、89年(明治22)の憲法発布の大赦で出獄し三春に帰りました。翌年7月第1回衆議院議員選挙で初当選(続けて14回)し、1903年(明治36)12月には衆議院議長に就任しました。05年9月には講和反対国民大会(日比谷焼打事件)で収監されましたが06年に無罪になりました。15年(大正4)1月から翌年10月までは大隈内閣の農商務大臣を務めました。河野は1923年(大正12)12月29日、東京の自宅で没しました。享年74歳。従3位勲1等を受けました。