江藤長安は、長俊の長男として1856年(安政3)に生まれました。江藤家は、もと石川郡川東村の市野関にありました。父の長俊は、幕末に長崎に出て修業した長崎帰りの医者でした。彼は、高野長英(後藤新平の叔父)らと長崎でシーボルトからオランダ医学を学んでおり、当時としては進歩的な考え方を持っていました。東北で最初に種痘を実施した医師として知られています。
息子の長安は、須賀川の医学校に学び、この医学校に学んでいた後藤新平(1857〜1929)の上級生でした。卒業後、村に帰り父の跡を継いで開業医をなりました。長安は、小柄な体で往診に歩き回り、患者の家で遠慮なく酒をご馳走になり、地域にとけ込むとても庶民的な人でした。
75年(明治8)、河野広中らが石川村に民権政社の有志会議(石陽社の前身)を結成する際に、参加し、それ以来河野との親交があり、のちの自由党組織の準備にも奔走しました。長安は、福島・喜多方事件が起こった82年(明治15)、26歳になっていました。警察は、石川郡における民権運動の重要活動家の一人として長安をマークしていました。福島・喜多方事件が起こると、石川警察署長椎原国太はすぐ長安の逮捕に向かいました。数名の巡査が拘引状を持って長安の家に踏み込みました。その時の様子をまつばあさんの快挙として今に語り継がれている話があります。
長安は往診中で患者宅で酒を飲んでいたらしく不在でした。
「留守なら、帰るまで待たせてもらおう。」
「ばあさんや、囲炉裏に火をたいてくれ。」
「寒くてかなわねえや……。」
長安の母まつは女丈夫であったらしく、焚き物の中に、調味に使うつもりで軒下につるしてあった真っ赤な唐辛子をたくさん混ぜて火をつけました。署長以下巡査達はくしゃみは出るわ、涙は止まらないわで帰っていきました。12月、警察当局の追及が身近に迫るのを察知した長安は馬喰に姿をかえ、本物の馬喰を雇って追ってから逃れていました。長安は各地の民権家との連絡や福島・喜多方事件で入獄した同志やその家族達の世話を一手に引き受けていました。同志宅や宿場で新聞を貪り読み、メモをとり、連絡文などを書いています。当時の馬喰には読み書きできる者が少なかったらしく、宿の女中などから物めずらしがられました。
やがて河野が出獄して衆議院議員選挙に出ると、長安はこの地方の参謀となって河野を助けています。長安は、生前から墓碑戒名を自ら記していました。それは、「自由院豊酒長安医居士」というものでした。自由主義者で、酒をたしなんだ医者ということでしょう。まさしく長安の生涯そのものでありました。1909年(明治42)、54歳で亡くなりました。長安の墓碑には、親友河野広中の筆による戒名が刻まれています。