赤坂多計乎(あかさかたけや)

 赤坂多計乎は、1847年(弘化5)白川郡渡瀬村(現鮫川村)に赤坂源左衛門の三男として生まれました。多計乎は医学を学び、白河で開業しました。有志会議(のち石陽社)が設立されると、多計乎は進んで参加し活発に活動しました。その様子は、河野広中の「南遊日誌」や吉田光一の「枢件日乘」などに書かれています。福島県に自由党が作られると、多計乎は自由党白河組の幹事になりました。

多計乎は進んで参加し活発に活動しました。その様子は、河野広中の「南遊日誌」や吉田光一の「枢件日乘」などに書かれています。福島県に自由党が作られると、多計乎は自由党白河組の幹事になりました。福島・喜多方事件が起こると、多計乎は理由もなく逮捕されました。三島通庸県令や警察の目的は、自由民権運動をつぶすことだったからです。国事犯として若松に送られた多計乎は、証拠がなく釈放されました。1910年(明治43)に多計乎は63歳で没しました。お墓は白河市の関川寺にあります。

旧赤坂家長屋門(東白川郡鮫川村渡瀬)