吉田正雄(よしだまさお)

■河野広中の親友吉田正雄
石川郡川辺村の大地主である吉田正雄は、1846年(弘化3)石川郡新屋敷村鳥内に生まれました。72年(明治5)3月12日、磐前県は大区・小区制を設け、区会所を置きました。川辺・須釜・浅川に区会所が設置されました。正雄は、川辺区会所の副区長に就きました。74年(明治7)9月30日、3区会が合併して石川区会所となりました。区長に河野広中が就任しました。川辺村は第5大区小9区となり、戸長に正雄が就いたのです。区長をしていた時から河野広中と正雄は親しい友人でした。彼らが中心になって石川村に有志会議(石陽社の前身)をつくったのです。正雄は河野より3つ年長であり、当時でも長老格の存在でありました。土佐(今の高知県)の板垣退助を訪ねた時のことを記した『南遊日誌』には、79年(明治12)高知に行く河野を須賀川に出迎え、正雄の家に一泊させています。

吉田正雄居宅跡(石川郡玉川村川辺)
『南遊日誌』(国立国会図書館蔵)

■福島・喜多方事件と逃亡生活
82年(明治15)11月に福島・喜多方事件が起こると、12月河野広中、愛沢寧堅らが福島無名館で捕らわれます。正雄は河野と親しい間柄で、そのため民権運動を取り締まる警察から追われます。しかし、危険を察知した正雄は、一足違いに関東方面に逃れました。警察の厳しい捜査にも拘わらず、容易に捕らえられませんでした。12月19日、石川警察署長警部椎原国太から白河警察署長警部杉村正謙に宛て「吉田正雄、右之者人体相書別紙之通ニ在之、且ツ東京住所ハ不明ニ付目下探偵中ニ在之候条、可然御取計相成度御依頼ニ及候也。」といって「逃走人体相書」を添付しています。翌16年1月になっても正雄の行方は依然としてわかりませんでした。16日埼玉県下に立ち寄ったとの報告が入ると、三島通庸福島県令は直ちに埼玉県令に正雄の捜査を依頼し暗号電報を打ったのです。同日折り返して埼玉県令から「吉田正雄、年齢、人相至急報知アレ。」の入電に対し、三島県令はさらに「吉田正雄ハ三十五年六ヵ月、丈高キ方、貌長ク、赤白キ方、外ハ並体ナリ。」と返電しています。24日になり埼玉県令から三島県令に文書が入りました。内容は結局正雄を取り逃がしてしまったことが記されています。探偵の報告によると、正雄は変装の上、横浜太田町の生糸商(35歳)と止宿人名簿に記し、埼玉県小川村の旅人宿に1月5日から10日まで止宿し、滞在中は一室に潜み読書をしていたことなど詳細に動向を書いています。正雄の逮捕について明らかではありませんが、福島・喜多方事件関係者の裁判が高等法院で行われ、大部分が釈放された後でした。そのため、三島県令は正雄を別件の官吏侮辱で告発しました。彼は重禁固1ヵ月、罰金20円の言い渡しを受け、福島監獄に入れられました。

■井戸塀政治家
出獄後、再び県会議員となりました。89年(明治22)3月ころから始まる大同団結運動に加わり、92年(明治25)2月の第2回衆議院総選挙に自由党から出馬したが、わずか3票の差で落選しました。その後、94年(明治27)3月の第3回、9月の第4回衆議院総選挙と続けて河野といっしょに当選し、代議士となりました。民権家吉田正雄は、長い政治運動で井戸塀はおろか資産をすっかり失いました。正雄について、次のような話があります。彼は、「阿武隈川沿いにある川辺の地に県庁を誘致しよう」としていました。今後も吉田正雄の足跡は、語り続けていかなければならない魅力ある民権家の一人であります。まさに彼の生涯は、民権家として疾風が如く駆け抜けた人生でした。

鈴木荘右衛門/重謙
■大庄屋鈴木家
福島・喜多方事件で国事犯に問われた鈴木重謙の家は、石川町下泉の中央通りに、すばらしく豪壮な門があって人目をひきつけていました。平成7年5月に町文化財に指定されましたが、現在は解体され、修復できるように保管されています。鈴木家は江戸時代に石川組17ヶ村の大庄屋を務め、1791(寛政3)には越後の高田藩から苗字帯刀を許され郷士に取り立てられました。門は、郷士の特権として江戸時代後期に建立されたものと推定されます。

鈴木家の門(解体前)