鈴木荘右衛門/重謙(すずきしょうえもん/じゅうけん)

■大庄屋鈴木家

 福島・喜多方事件で国事犯に問われた鈴木重謙の家は、石川町下泉の中央通りに、すばらしく豪壮な門があって人目をひきつけていました。平成7年5月に町文化財に指定されましたが、現在は解体され、修復できるように保管されています。鈴木家は江戸時代に石川組17ヶ村の大庄屋を務め、1791(寛政3)には越後の高田藩から苗字帯刀を許され郷士に取り立てられました。門は、郷士の特権として江戸時代後期に建立されたものと推定されます。

鈴木家の門(解体前)

 重謙は、18585年(安政)に岩瀬郡長沼村南横田の陣屋で、豪農だった矢部精一の六男として生まれ、鈴木家の長女ミトの婿養子となりました。彼は婿養子でも、養父の荘右衛門が自由党員として活動していたため、親子で自由党員として、気兼ねなしに政治活動ができたようです。重謙は福島・喜多方事件のおきた明治15年にはまだ24才でしたが、その年の3月ごろから石陽社の若手活動家として精力的に演説会を開いています。当時の石川は、本県の自由民権運動の発祥の地として、河野広中の影響が強く、官憲側(政府や警察)は特に警戒していました。1881年(明治15)に、福島県令に薩摩士族の三島通庸が就きました。そして、石川警察署長には同じく薩摩士族の椎原署長が就任したのです。政府が石川を強く警戒していた表れです。そんな中、3月14日夜、諸岡直蔵方で政談演説会が開かれ、重謙は河野広中に続いて、演説を行っていました。そこへ石川警察署の2人の巡査が入ってきました。それをみた重謙は、壇上から「カラスのように黒い着物を着て、黄色い筋を着けた巡査さんは、この席(会場)にはいりません」と言ったのです。すると「二人の巡査を侮辱した」ということで、演説会は解散を命じられ、重謙は逮捕され、石川署に拘束されてしまいました。この出来事は、東京の新聞でも報じられましたが、白河の裁判所では、処分されることもなく釈放されました。その後も彼は、各地の演説会に加わり、自由民権運動を弾圧する政府や警察に対して、徹底した抵抗のかまえを変えませんでした。同じ年の秋に、会津三方道路工事に端を発した福島・喜多方事件がおきると、先に逮捕されていた河野や吉田光一らに引き続き、重謙も石川警察署に逮捕されました。自由党員として会津の農民暴動を指導したという疑いです。重謙は会津へは一度も行ったことはなく、指導できるはずがありません。それでもはるばる会津まで身柄を護送され、「証拠はないが疑わしいから間違いない」という考えで、警察から厳しい取り調べを受けたのです。当然、何の証拠も出てくるはずもなく、結局、警察側は重謙の罪状をみつけ出せず、2月上旬寒空の中、会津で釈放されました。政治活動には多額のお金がかかりましたが、彼はその後も政治活動を続けました。また、私財をなげうって、多額の寄付を多方面にするなど、社会に役立てようとしました。彼の政治に対する強い熱意や、社会に対して献身的な姿勢が感じられます。後に、県会議員、石川町長も務めましたが、昭和4年72才で亡くなりました。重謙には7人の子どもがありましたが、家業の酒造は早いうちにやめてしまいました。

津へは一度も行ったことはなく、指導できるはずがありません。それでもはるばる会津まで身柄を護送され、「証拠はないが疑わしいから間違いない」という考えで、警察から厳しい取り調べを受けたのです。当然、何の証拠も出てくるはずもなく、結局、警察側は重謙の罪状をみつけ出せず、2月上旬寒空の中、会津で釈放されました。政治活動には多額のお金がかかりましたが、彼はその後も政治活動を続けました。また、私財をなげうって、多額の寄付を多方面にするなど、社会に役立てようとしました。彼の政治に対する強い熱意や、社会に対して献身的な姿勢が感じられます。後に、県会議員、石川町長も務めましたが、昭和4年72才で亡くなりました。重謙には7人の子どもがありましたが、家業の酒造は早いうちにやめてしまいました。

江藤長安
 江藤長安は、長俊の長男として1856年(安政3)に生まれました。江藤家は、もと石川郡川東村の市野関にありました。父の長俊は、幕末に長崎に出て修業した長崎帰りの医者でした。彼は、高野長英(後藤新平の叔父)らと長崎でシーボルトからオランダ医学を学んでおり、当時としては進歩的な考え方を持っていました。東北で最初に種痘を実施した医師として知られています。
 息子の長安は、須賀川の医学校に学び、この医学校に学んでいた後藤新平(1857〜1929)の上級生でした。卒業後、村に帰り父の跡を継いで開業医をなりました。長安は、小柄な体で往診に歩き回り、患者の家で遠慮なく酒をご馳走になり、地域にとけ込むとても庶民的な人でした。
 75年(明治8)、河野広中らが石川村に民権政社の有志会議(石陽社の前身)を結成する際に、参加し、それ以来河野との親交があり、のちの自由党組織の準備にも奔走しました。長安は、福島・喜多方事件が起こった82年(明治15)、26歳になっていました。警察は、石川郡における民権運動の重要活動家の一人として長安をマークしていました。福島・喜多方事件が起こると、石川警察署長椎原国太はすぐ長安の逮捕に向かいました。数名の巡査が拘引状を持って長安の家に踏み込みました。その時の様子をまつばあさんの快挙として今に語り継がれている話があります。
 長安は往診中で患者宅で酒を飲んでいたらしく不在でした。

江藤長安墓碑(須賀川市小作田)
(「自由院豊主長安医居士」)