横田三次郎(よこたさんじろう)

 横田三次郎は、1854年(安政元)三春藩士の子として生まれました。明治になって学校の教師となり、石川、沢井及び北山形小学校に勤務しました。三次郎は、河野広中と同郷ということもあり、石川小学校時代に自由民権運動に傾注します。石川の政治結社、第二嚶鳴社に加盟し、中心的な役割を果たしました。1881年(明治14)には、不振になった第二嚶鳴社再興ための檄文を、沢井の加藤武、曲木小学校教員江藤宥靖及び渡辺信治と共に発します。また、1889年には条約改正で国論が大きく盛り上がったときは、改正論者として教職を辞して上京しますし、第2回衆議院選挙の行われた92年にも教職を辞して奔走し、政治的な行動はやむことはありませんでした。三次郎のこの姿勢は、弟子に大きな影響を与えました。北山形の添田初太郎は同じ教師の三次郎の影響で教師を辞めて、河野の書生になり、自由党壮士として活躍しました。後の東北仏教界の発展に寄与した那須雲照寺住職釈戒光です。1906(明治39)病のため53歳の生涯を終え、北山形字萱手作の共同墓地に眠っています。後年、地域の人々により、北山形福満虚空蔵尊境内に功徳碑が建立されました。

横田三次郎功徳碑(北山形字竜ノ口)
横田三次郎救済基金募集趣意書
(渡辺実氏蔵)