添田治兵衛/一二(そえたじべえ/いちじ)

 治兵衛は1822年(文政5)、高田村南町松右衛門の長男として生まれました。1873年(明治6)内槙村伍長、74年高田町・内槙村戸長、76年石川村用掛、77年産馬会社畜産掛、77年神風講社世話掛などを歴任しました。この時代の多くの指導者と同じように、宗教も仏教から神道に転じています。1878年(明治11)石陽社が結成されると、治兵衛は養子一二と共に社員になりました。しかし、同年6月石川に、もう一つの政治結社第二嚶鳴社が結成されるとその幹部となり活躍します。1879年(明治12)12月24日、吉田光一と山本氏の奥羽遊説への激励会に、嚶鳴社から横田と添田が出席しました。又、光一が遊説から帰宅すると、80年3月5日自宅に招いて酒と餅をごちそうしました。石陽社との盟約を結んで、社員との交流が緊密になった様子が分かります。82年、当地方で演説会が盛んに行われるようになると、治兵衛は56歳になっていましたが、青年弁士に混じって

第二十一区石川村用掛辞令書
(添田美和氏蔵)