門馬尚経(もんまなおつね)

■第二嚶鳴社の中心人物
尚経は、行方郡南新田村旧中村藩士の子として生まれ、15歳で藩主の小姓役、鹿児島藩に遊学、大隈重信のもとで東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、北海道硫黄鉱山場長、半田銀山事務員と数奇な遍歴をたどりました。そして、河野広中の斡旋で、第21区の学区取締として石川に赴任してきます。1878年(明治11)5月、尚経が中心となり、石川に政治結社第二嚶鳴社を結成しました。今まで「談論の会」として十数人で活動してきた公同社を東京の嚶鳴社々長沼間守一の承認を得て、改称・結成したものです。尚経は、前年の同10年頃から沼間守一に書簡を送り、通信、交友が始め、1月の尚経の書簡で、結成の意向を伝えています。
第二嚶鳴社は、その目的を「討議演説」としながらも、農業や商業など地域の産業を振興する産業結社でもありました。尚経は、明治11年から12年の沼間守一への書簡の中で、石川産の
煙草や米を東京で販売や石川産鉱石の分析の依頼をしました。第二嚶鳴社の結成は、社を大きく前進させました。社員は100名を超え、石川郡のみならず、岩瀬・安積・西白河郡内から来る者もあり、その名声は、県内にひろまっていきました。さらに、石陽社員から入社する者もあり、トラブルも起きたようです。しかし、尚経が福島県書記官(明治十二年の官員録では十等属)になり、福島に転居し、さらに集会条例の発布により社は衰退していきました。そこで同14年9月18日、横田三次郎、加藤武、渡辺信治、江原宥靖によって、「第二嚶鳴社再興の檄文」が発せられました。その後、尚経は県書記官をやめて上京し、秀英舎の職工や鹿島中学校の幹事兼漢学教授、そして、改進党本部の会計を勤めます。この間、1884年(明治17)12月、東京神田で開催された立憲改進党臨時会に出席しています。また、翌年18年2月、東京浅草で開催された立憲改進党員集会にも出席しました。

■門馬、国会議員に当選
尚経は96年(明治29)年第4回総選挙に福島県第3区改進党から立候補しますが、自由党の河野及び吉田の前に惨敗しました。しかし、97年の第5回総選挙は第5区から出馬し、見事当選し、つづく第6回も当選しますが、第7回及び1904年の第9回で落選しました。1900年(明治33)5月17日、沼間守一10周年追悼会が開かれ、その発起人の一人に尚経がなっています。晩年は移民事業に精力を傾けましたが、1915年(大正4)7月、その生涯を閉じました。

門馬尚経に関する新聞記事
『福島新聞』大正3年6月23日