草野浅治(くさのあさじ)

 草野浅治は、草野市右衛門という中農の長男で1863年(文久3)石川郡曲木村仲ノ内に生まれました。当時、曲木には四軒の紺屋があり、農業の傍ら藍染めを専門にした紺屋で、近隣村の需要を満たしていました。紺屋の長男だった浅治は、14・5歳のころから石川の染物屋小桝屋に見習い奉公として住み込んでいました。82年(明治15)7月29日、浅治は、石川町字南町の近内勝蔵方での政談演説会を聴きに行き、軽禁固1カ月に処せられています。その時、19歳でした。石川は自由民権運動の拠点で、県内はもとより遠く高知人や愛媛人の論客が入って、政談演説はことのほか盛んでありました。この運動は人々の自由な意見によって代表を選び、議会を開き、国民が参加した政治の実現を目ざすものです。血の気の多い浅治は、その影響を受け、政治に対する憤りや憎しみを燃やすようになりました。その日の演説会では、母畑村の関根常吉の演説が悪いということで解散を命じられました。しかし、浅治は巡査の命令に服さず、席を立とうとしなかったのです。そのため白河軽罪裁判所に告発されました。浅治は裁判で、故意に立たなかったのではなく「足が痺れて立てなかった」のだと主張しました。

のほか盛んでました。この運動は人々の自由な意見によって代表を選び、議会を開き、国民が参加した政治の実現を目ざすものです。血の気の多い浅治はその影響を受け、政府に対する憤りや憎しみを燃やすようになりました。その日の演説会では、母畑村の関根常吉の演説が悪いということで解散を命じられました。しかし、浅治は巡査の命令に服さず、席を立とうとしなかったのです。そのため白河軽罪裁判所に告発されました。浅治は裁判で故意に立たなかったのではなく、「足が痺れて立てなかった」のだと主張しました。この滑稽じみた裁判に当時の言論や集会に対する抑圧ぶりがうかがえます。
 浅治には子供がなく甥の安信(和泉庵寿泉)を養子としました。その後草野家は孫の朝治さんに受け継がれ、現在朝治さんの妻スエさんが家を守っています。スエさんによると、浅治は曲木にて紺屋職をしながら、機織り作業所で14、5人を雇って仕事をしていました。浅治は新しいものに大変興味を示し、コンニャク玉をシナ玉と言ったりしていたので土地の人は浅治を“舶来浅治”と言っていました。1940年(昭和15)12月、79歳で亡くなりました。浅治の家には、明治期の書籍類が今も残されています。