関根常吉(せきねつねきち)

 関根常吉は1866年(慶応2)石川町大字母畑字竹ノ内、茂八の子に生まれました。医師をめざして、石川の医師自由党員でもあった川口元海の元に弟子入りします。又、青年校に学びながら、吉田正雄や吉田光一、笠原忠節などと交際があったようです。この頃に医学や国の政治、外国の政治情勢などを勉強し、自由民権の考えに傾注していったものと思われます。石川地方で、最も盛んに演説会が行われた1882年(明治15)には、弱冠17歳ながら青年弁士や主催者として大活躍します。4月8日渡辺忠兵衛宅演題「自由な進取させる可らさる説」、18日高田の長泉寺、演題「立志の説」、5月1日と8日荒町の鈴木荘右衛門長屋、演題「立者の説」「口あれとも、言うこと能は去る者何ぞ」、7月28日南町近内勝蔵宅、演題「誤認する勿れ」。しかし、7月29日、南町の近内勝蔵宅で「社会の激進は、悉く外物の刺衝に出」と題して演説中、中止を命ぜられ、集会条例違反で逮捕、罰金10円に処されます。ロシアやイギリス、アメリカなどの政治情勢や体制を論じながら、日本の政治体制を論じたとして、逮捕されました。

関根常吉墓(母畑浄光寺)

がら青年弁士や主催者として大活躍します。4月8日渡辺忠兵衛宅での演題「自由な進取させる可らさる説」、18日高田の長泉寺での演題「立志の説」、5月1日と8日荒町の鈴木荘右衛門長屋での演題「立者の説」「口あれとも、言うこと能は去る者何ぞ」、7月28日南町近内勝蔵宅での演題「誤認する勿れ」などです。しかし、7月29日南町の近内勝蔵宅で「社会の激進は、悉く外物の刺衝に出」と題して演説中中止を命ぜられ、集会条例違反で逮捕され罰金10円に処されました。ロシアやイギリス、アメリカなどの政治情勢や体制を論じながら、日本の政治体制を論じたとして逮捕されました。

■福島・喜多方事件で逮捕
 1882年(明治15)11月、福島・喜多方事件が起きると、県内自由党員が次々逮捕されました。常吉は、先に逮捕された川口元海の家族へ手紙で知らせたり、福島監獄の川口に食べ物や着るものを差し入れたり、同志のために奔走しました。常吉も平で再び捕らえられ、石川警察署に護送されました。さらに若松に護送され、そして最年少の国事犯として東京の高等法院に送られました。石川警察署の厳しい取り調べでも、17歳とは思えない巧みな答弁で取調官を翻弄しました。高等法院では、翌年4月13日、証拠なしで釈放されました。
 そして、同年8月30日に開かれた東北七州の代表者会議に、壊滅的になった福島県から関根常吉外4名が出席しました。1884年(明治17)、玉川村川辺字金波の矢吹柳助家に養子に入り、矢吹常吉となります。1887年(明治20)、川辺村吉田正雄外106名による「条約改正建言書」が11月30日元老院に提出されますが、常吉は、建言書捧呈委員になり、活動しました。激しい弾圧を受けても、政治への熱意は失うことはありませんでした。養父柳助も106名の1人として名を連ねていることから、志を同じくしていたものと思われます。養父母と妻に先立たれた常吉は、1819年(大正8)母畑の実家に戻りました。1924年(大正13)2月4日、59歳で亡くなり、石川町大字母畑字七森の浄光寺の関根家の墓地に眠っています。